Feeds:
投稿
コメント

え?

本日は4月18日ですが、雪が降った・・・。

去年の今頃の記憶がほとんど残ってないから、そういうものかなぁ、という感じなのだけど(ただひたすらレポートで泣きそうになってた記憶がメインで外の状況とか覚えてない)。そう言えば、C.K. Prahalad が亡くなって(授業を受け損なって)心理的ダメージを受けたとか、iPadリリースで頭を悩ませていたみたいなことはあったのは覚えてるかも。

去年、お風呂に入る余裕がないとか、家に帰れないとかそういうペースだったから、今年は忙しい割にはゆとりがあるんだろうなぁ、と思いつつ。

Think or Do/Think and Do

Ford School での生活もほぼ終わりにさしかかってる。授業の数が減ったはずなのだが、リーディングと課題が今までよりも重いせいもあり、時間を取られているせいか、相変わらず綱渡りの生活が続く・・・。グループワークはまだ楽な方で(時間調整とかでいろいろブチ切れそうになるのだけど)、論文の中には消化をするために教科書(MWGとかEconometric Analysis)を読み返したりするので相当しんどい。

課題で煮詰まって、気分転換のために「あーでもないこーでもない」と考えながら散歩に出るのが気分転換みたいな感じ(Bostonに行ったのは一応、いいネタが見つからないのでネタの仕入れに出かけたという意味もある)。

ふとこんな生活は社会人として許されるのか、とちょっと思う。

これは、公共政策大学院は果たしてアカデミックスクールなのか、プロフェッショナルスクールなのか、という点とも実は関わってる。Kennedy School のように何でもありのマンモス大学院はさておき、policy analysis のリーダーを養成しようという形でアイデンティティを規定している Ford School にとって、「プロフェッショナルスクールである」ということはどれだけの意味を持つものなのか、と。

Ford Schoolの卒業生で世銀でコンサルタントをしている方の生活も、「(報告書の)第X章とY章の一案をZZ日締切厳守でとにかく仕上げてください。それまでは相談事がなければ、オフィス来なくてもいいから。」というようなこともあるそうで(=オフィスに来ていろいろ雑用をするよりも、締切を守る方がが死活命題だということで・・・)。

政策分析というスキルを使うタスクと、それ意外のタスクの性質の違いはあるわけで、「政策分析のプロフェッショナル」というのはどんなもんかいな、と(チームを作って作業を分担して分析をするという機会はあるのだけど、似たようなことは開発経済学の経済学者さんが社会実験系のプロジェクトをやる際にはではもっとちまちまとした話(それこそコンプライアンスの審議とか現地での手続きや調整)をチームで処理しないといけない)。

そういうところを考えると、Bスクールはそういうものを鍛える要素は(アメリカで生きていく上で必要なネットワーキングとともに)ずっとしっかりしているのかもしれない(意外と、Ford SchoolとBスクールのDual Degree 生はいたりする)。

ようやく乾燥が終わった。これでようやく学校に行ける(涙)

安心と安全と広報。

大震災かはや一ヶ月が経とうとしている中、NHKを観ていると(すみません人事課様と研修担当様(涙目))地域によって濃淡はあるもののの着実に復興に向けて歩み始めているように見える。それに呼応するように、米国における震災に関連する報道は福島第一原発の政府対応に向けられがちだ。広域に及ぶ地震・津波被害と福島第一原発の事故と二つの異なる、しかも部分的に影響しあっている対応を同時並行でやるという、文字通りの「未曾有の危機」への政府対応から、原発事故に対する政府のミスマネージメントという風にコンテクストが変わってしまったように見える。

原発対応については、1) 危機的な状況からの脱却(=冷却機能の回復)、2) 関連リスクの最小化、そして3) 風評被害等の最小化と複合的な視点での対応が必要であるものの、官房長官や原子力・保安院の審議官による連日の記者会見を観ていると、「安心」を責任を負わないように強調しようとするあまり、逆に不安あるいは風評被害を煽っているように見えてならない(彼らには気の毒だが、欧米の大使館による退避指示が不安を助長したこともある)。

政府による「安全だ」という発言は、内部での意思決定がどうであれ、暗黙の前提として「この事態がこれ以上悪化しない/早期に収束する」という見方があることは言うまでもない。政府批判をする側は結局対応が長期化している状況を前に、そうした政府の見方を批判していることは言うまでもない。

記者会見は「政府の立場を説明する」ものであって、単に「(今手持ちの)情報を公開する」ものではない。「直ちに問題は起きない」と強調することが、政府部内における「リスク評価」の適当さを明らかにひけらかしているように聞き手には伝わるのだ。単に放射線の観測が後手に回ったとか、放射線の拡散予測を気象庁が公開していなかったみたいな話とは別に、「AとBという仮定においた時に、Xというリスクがある」という評価を前提に議論をしなければ、仮に安全だったとしても国民側は安心出来ないわけだ。

これは、リスクコミュニケーション(特に危機対応時の)のモデルが日本において充分に確立されていない(=国民も含めて共有されていない)ことによるものではないかと思わざるを得ない。例えば、政府部内で諸般のリスクを検討し、関係部局が妥当と思われるものを記者会見で発信するモデルが受け入れられているか、ということを考える必要がある。おそらく、海外メディアはそれが妥当なモデルだとは考えていないだろう。メディアは自分たちの役割を売り込みたいわけで、内外の有識者等を交えて番組で議論することを通じて、政府高官の発言を批判的に検証し、それを国民が受け止める(更に、メディアの報道に対してblog等で議論をするというのはあるのだが・・・)というよりオープンで、政府のグリップが効かないモデルを好む。

日本国民もそうしたメディアを試聴し、それを日本語に直してblog/twitter 等で発信しているわけで、日本政府に対する潜在的な不信感があれば、そうした情報が更に不信感を煽ることになる。政府にとって必要なのは、海外のメディアも含めて「どう受け止められたいか」という点を前提にして、情報を発信する姿勢だろう。

ちなみに public relations/public communication のよくある話として、スピーカー扱いのためコアな意思決定の場から外されるが故に、現場のノウハウが全然に「何を発信するか」という意思決定にフィードバックされず、対応がちぐはぐになるというものがある。有象無象の企業なら潰れればそれで済むけど、政府においてはそれは許されないわけで、ここで醸成された不信感は後でボディブローのように効くと思う次第。

ボストン来訪。

先週末、Harvard Kennedy School のCenter for International Development とMIT Sloan の学生団体がそれぞれ開催するカンファレンスに参加するためBoston(厳密に言うと、Cambridge/Brooklineなのだけども)を訪ねていた。Pre-schoolの早い時期から当地で過ごしていたこともあって、自分の記憶は実のところBoston から始まってる(記憶容量の関係で大分圧縮、劣化しているような気もしなくもないが)。

両親と住んでいたアパートの近辺はそのままほとんど変わらず(近所の公演の遊具が変わってた気がするが)、自分の記憶の中にあるイメージよりも小さな建物に、自分が大きくなったんだなぁ、と改めて思い知らされた(ちなみにBUが徒歩圏内にあり、結構BU生が住んでいた(いる)らしい)。ここと、近所にある pre-school があったシナゴーグ(マサチューセッツ州最古)を訪れた。自分がお世話になった(付属の)建物は見事に別物になってけど(涙)。Green line 等々、この界隈の景色はおぼろけながら自分の記憶のままで、とても嬉しかった。

で、だ。

その後、Harvard まで徒歩で移動するという愚行に出てしまい、時間の都合上、elementary schoolや日本語補習校とか、弟が生まれた病院とかは行くことが出来なかった(家族で時々お世話になっていた日本料理店は数年前に閉店してたし、百貨店も建物自体が真新しくなっていた)。

カンファレンスの話は別の機会に譲るとしても、Harvard やMITを有するBoston (Greater Boston)は学園都市としては別格だし、有象無象の大学や研究所(とか卒業生のベンチャー企業とかも)が集積していることもあって非常に活気に溢れる街のように見えた。東海岸の交通網の利便性もあって、New YorkあるいはDCといった都市と離れていてもそこに人が根こそぎ持っていかれるということは無い(著名大学は移転しないだろうし)。

ミシガン大学は実は元々Detroitにあったけど、1837年にAnn Arborに移転してる(ちなみに同年にミシガンは正式に米国の州になった次第)。仮に、そのままそこに居続けたとしたならば、Detroitの姿もちょっとは違ったものになっていたかもしれない(その変わり、今のような想像を絶するような広大なキャンパスにはならなかったかもしれないが)。

街を散策していても、Barneys New York 等の百貨店の品揃えは微妙にChicagoよりも良かったり、家電製品探しもしやすい(iPad 2はどこ探しても無かったが)。

New Yorkや、DCと比べると、観光名所と呼べるところは少ないものの、アカデミー賞も受賞している五大オーケストラの一つ、Boston Symphony Orchestraや、Museum of Fine Arts, Boston 等々かなり手堅く観光地に求められる要素を抑えているように見える(行かなかったけど)。

Detroit の再興ということを考える際に、DC/NYは別格としても、Chicago がそばにあり、主力の自動車産業も微妙に郊外に移転したり、代わりの産業もTroyあるいは、Ann Arbor が持っていっちゃうとなるとどうするのやらねぇ、と思わざるを得ない。経済システムとは残酷なものだなぁ、と。

こうやって考えると、自分が住んでいたエリアを比べると、「そりゃ、日本に住みたくはないわな」と妙に納得する次第。Detroit 市内に住んでいたら、ひょっとしたら「日本がいい!!」とか言ってたかもしれない。

なお、食事についてはカンファレンスの朝ご飯とお昼(=サンドウィッチ)、夜は時間が無くって遅くまでやってるMITそばと中華街の中華料理店に行っただけだったりする(なお、30分くらい真剣にマクドナルドに駆けこむか、如何にも微妙な中華料理店で食べるか悩んだ)。

Schakolad Chocolate Factory

先週野暮用でいろいろとAnn Arbor市内のお菓子関係の店をリサーチしていた時にたまたま見かけたチョコレート専門店、Schakolad Chocolate Factory。フロリダ拠点のチェーンなのだけど、ホットチョコレートとトリュフを食べてみたら意外と美味しかったのでブログにも書いておく(いわゆる甘ったるいチョコレートではなく、ヨーロッパ系の甘さ控えめの上品な感じのもの)。

お店で作っているのか、フレッシュなチョコレートが楽しめる(気のせいかもしれないけど)。

お店の雰囲気と接客がやや微妙な感じがしなくもないけど、その分お値段が安いことを考えると悪いトレードオフではないような気がする。なお、Ann Arbor にはGodivaの小売店舗があったり、Zingerman’s Deliでも著名なところの板チョコが置いてあったりするので、最良のチョコレート店かと言われると好みが分かれるところではある。

金に糸目をつけずに美味しいチョコレートが食べたいというのであれば、ニューヨークに買いにいくべきだと思うし(さすがに16個とか24個入りの詰め合わせを300ドルとか500ドルかけて買いにいくようなものか、そこまで中毒ではないのでなんとも言いませんが)。

South Main Street近くを散策するのであれば、気軽に寄れるので是非是非。

もう春学期も後半で授業もそんなに取っていないから、ちょっと時間に余裕ができたのでいろいろ散策しているけどこういうお店もあったんだぁ、とちょっと感激してる次第。

Navara Foundation

気がついたら先週から既に1週間が過ぎていた・・・一週間って早い。先週は、ミシガン大学の学部生が運営している国際開発系サークルNavara Foundationが主催するGlobal Development Conferenceに参加してきた。おそらくメンバーの中に経営管理学学士課程(BBA)の学生がいたのか、会場がRoss School。

さすがに学部生だからか、11時始まりだったけど。

朝はコーヒーと紅茶、昼はインド料理のケータリング、さらに夕方はフルーツとお菓子のリフレッシュメントが出ていて、大部分の大学院組織顔負けのカンファレンスになっていた(もちろんMBA生がマジで渉外活動をやってるようなカンファレンスと比べると気の毒だ)。

参加者も、Ford SchoolのDeardorff教授や、Ross School とLaw Schoolの教授を引っ張ってきた他、政治学部博士課程の学生(研究というか副業でmicrocreditを使ったorganic coffee栽培の指導をやってる)、その他実務家も何人か招く等なかなか本格的。今回のカンファレンスの基調講演を、クリントン政権時代に世銀の理事を務めていたJan Piercy がやるいうことで参加した次第(Acumen Fund のAdvisory Boardのメンバーや、シカゴにある米最古最大のcommunity development bankの上級副総裁(国際担当)等を務めている)。

マイクロファイナンスや社会起業のあり方という「流行り」をテーマにした議論で、パネルディスカッションでも先生方が結構真剣に議論していて中々興味深い。パネリストとして論点を提示したり、反論を上手く引き出すスキルがあると強いんだなぁ、と。アメリカでも9割の人間は起業なんかしなのに何故マイクロファイナンスは「起業」を促進すると思うのかとか、マイクロファイナンスにおいても、会社も、利用者も様々だ、みたいな話があった。

日本で参加した似たようなワークショップものだと、特定のポジションを取って、特定の取組みを賞賛したり、糾弾したりするようなものが多く辟易することが多かったので、こうしたバランスの取れた企画を学生が準備し、パネリストが支えるというのはとても大切なことだと思う。学部生が中心ということもあって、これからの職業選択を真剣に考えて欲しい、という思いがあってのことかもしれない。

印象深かったのは、Piercy が政府で働くことも選択肢の一つに入れて欲しいと強調した点だろうか。優秀な人程回転ドアでシニアなポジションで政府に入ることを考えるせいか、学部生から見るとあまり魅力的な職場には見られていないみたい(国務省はちょっと違うみたいだけど)。でも、末端の立場でも政府で働く機会を得ることは政府がどういう仕組みで動いているかを学ぶ上で貴重な機会で、将来政府高官としてそこに戻るときにとても役に立つという話をお友達の商務省長官(あれ、労働省だったっけ?)の話を引いて説明していた。

同じ文脈で、クリントン政権の政権移行チームで有象無象の政治任用ポストを埋めるための候補者リストを埋めるためにかなり苦労したという話も併せて披露していたけど(大統領はアメリカの多様性を反映した任用をしたいという移行を持ってたのでさらに苦労してたとか)、自分の軸を持って、能動的にキャリア選択をし、そこで成果を積み重ねるというのは大事だという話と、「開発においてそれは何か」ということを真剣に考えて欲しいようだった。

裏番組でビデオ編集をやっていて(その日はデータをフォルダに移して整理をする作業が中心だった)、School of EducationとRoss Schoolの建物を行ったり来たりしていたのだけど、とても充実した一日に感じられた。

余談ながら、アメリカが凄いなぁ、と(外務省的に)思ったのは、曲がりなりにもケータリング業でも競争原理が働いていることと、こうした会議なりワークショップを開催することがそもそも当たり前になっていて、立て看板等もソフトで一度デザインしてしまえばかなり質が高いものを学生でも用意出来るよう設備が整ってるというところか。

バックオフィスの機能がしっかりしていることは組織のパフォーマンスと外部からの信頼性を考える上で、大事よ。

Conundrum。

随分と貯めているブログのネタがあるのだけど、ちょっと時間が空いたので(=グループミーティングが二つとも時間がずれた)ちょっと記事をアップしてみる。

木曜日の朝に受講している Ford SchoolのDean(=Dean Yang ではなく、学長のDean)の開発政策の授業なのだけど、今回初めて「面白い」と思った。この授業自体は開発政策のサーベイコースなのだけれども、昨年と違って今回は実質半セメスターの時間で「開発」をおさらいするという驚愕の陣容となっていて、正直中身がスカスカだった。本来シラバスでカバーされている内容は一人の先生が喋りまくる形を取っても一つのセメスターでやるべきものだし、個々の分野を概観する意味でも二コマかけてもう少しreadingをやっていかないといけない。

それを半分の時間で、インタラクティブにやろうとしているから恐ろしい。

ただペーパーの件でアポイントメントを取って学長室に押しかけた時は、授業の時とは違って1時間くらい時間を取ってかなり中身の濃いフィードバックをくれたのだけど・・・。そういう類のキレが今回はあったような気がする。

今回の授業のテーマは、先生の個人的な関心分野でもある「教育が経済発展に与える影響(マクロ)」。

何が面白いのか=実証研究に落としていく段階でいろいろ検討・処理しないといけないお話があって、(少なくともアメリカにおいて)結局統計で見る限りにおいて我々が信じている要素は実は当てはまっていない。問題は本当に外れているのか、データ自体に問題にあるのかが分からないというところ。まだまだ詰めることが出来る。

例えば、「教育の質」をどうやって評価するのかという問題。データでそれを把握しようとした時、それは教員数(生徒一人当たり)なのか、教員の学歴なのか、教育設備(黒板、教科書とかとか)とか、教員の出社率とかとかとかとか、いろいろな変数が考えられる。ただ、それが「成果(=例えば標準テストでの達成度)」との関係を見た時に、その関係は実際のところ現場で起きている何を捉えているのか、という問題と併せて議論の余地がある。

後は、ミクロレベルでは直感的に理解出来る指標も例えば、マクロレベルで平均値を使うことが妥当か、とか。

特定の分野について公共政策大学院で学ぶということは、こうした実証研究、理論、さらには比較研究のようにアカデミックな知見がどのような形で蓄積されてきたかを概観することとが多いように思える。何を「政策」とするか、誰が主体なのか、誰が対象なのかは人によって見方は違うのだけど、そのフォーカスの違いは結構大きい気がする。そう言う点では、一般的に公共政策大学院がフォーカスするのは、複数の(かつ不特定多数の)対象を相手にした政策が中心になりがちだし、その効果の検証等も統計に基づいて行われているような気がする。

ただ実際には、現場において影響を与えている(=話題になっている)個々の事例やそのインパクトに我々の関心が向いていることが多い。それも中々扱いは難しい。例えば関連するそうしたプロジェクトレベルの効果については、実際に利用している評価手法はそれはそれで怪しい。統計的に妥当と思われるようなプログラム評価の手法を取り入れようとするのは非現実的だ(間違いなく厳密に議論していくといつまでも事業が出来ない)。そうすると、結局こうした事例を漁っていっても不満は残ったりする。

アカデミックなテーブルでは「こういう問題もありますよねー」というところで留めておいて興味がある人が掘り下げていくというアプローチもあるけど、実務を預かる人間としてはどの辺りで「見切る」かが重要になるように見える。今回の授業は完全にアカデミックな視点からだから「これでおしまい」で終わることが出来るけど、こうした議論の積み重ねの中で身を置ける専門家はとても楽しそう。

コピーロボットを10から20体くらい用意して異なる経験(=人生)をシェアしてみたい。